「娘はあやめ姉さん!?」その1
激しい夏のスコールに見舞われる中、陸軍病院の正面玄関に蒸気自動車が止まった。
その後部座席から出てきた大神は雨に濡れないように鞄を頭の上に乗せ、病院に駆け込んだ。
「すみません!!産婦人科に入院している大神かえでは…!?」
「先程、分娩室へ入られましたよ。ご家族の方ですか?」
「はい!!自分は、かえでの夫で――!」
「――父さん!」
「お兄ちゃん、こっちだよ!」
そこへ、大神とかえでの息子の誠一郎と妹の五香が駆け寄ってきた。
「かえでは…!?」
「〜〜それが逆子みたいで、難産になっているみたいなの…」
「〜〜そんな…!?」
「――男がそれくらいで動揺するな!」
と、廊下の長椅子に座っていた姉の双葉と母の志乃も大神を見つけ、立ち上がった。
「大丈夫さ、この私が義理の妹として認めた女だ。すぐに赤ん坊と元気に戻ってくるよ」
「〜〜しかし…」
「一郎さん、出産の時に旦那様がしてあげられることは一つ。頑張る奥さんの手をずっと握っててあげなさいな♪」
「そうだぞ、一郎!かえでは今、お前の名を呼びながら一人で頑張ってるんだ。早く行ってやれ!」
「あぁ、わかったよ!」
「僕も一緒に…!」
「いや、誠一郎はここで待ってろ!大丈夫だ、母さんと赤ちゃんは父さんが必ず守るからな…!!」
「父さん…。約束だよ…!?」
「あぁ、おばあちゃん達とおとなしく待ってるんだぞ?」
「うん!」
「よし、良い子だ」
「ふふふ、もうすぐお兄ちゃんだもんね〜♪」
「えへへ〜♪」
大神は誠一郎を抱きしめると、看護師から渡された消毒済みの服を着て、かえでのいる分娩室に入った。
「一郎君…!」
長時間続く痛みに気を失いそうだったかえでは、愛する夫の大神の到着がわかると、目に涙を浮かべて微笑んだ。
だが、その一瞬の安らぎもすぐに陣痛に取って代わられ、苦痛に喘いで顔を歪めた。
「かえで…!」
大神は平静を装い、かえでの手をぎゅっと握った。
自分が動揺すれば、妻に不安を与えてしまうだろうから…。
「大丈夫だ。俺がついてるよ…!」
「一郎君…。〜〜あああ…っ!!」
大事な賢人機関の会議とはいえ、病院まで付き添えなかった自分に大神は腹が立っていた。
その間ずっと、かえでは苦しんでいたというのに…。
同時に、励ますこと以外何もできない無力さにも苛立っていた。
…だが、今は自分を責めるよりも妻を安心させてやること!
それが最優先事項だ。
「かえで、頑張れ!もう少しだからな…!」
「〜〜一郎君…っ!一郎くぅん…っ!!」
「かえで、頑張れ!!俺が傍についてるからな…!!」
「はぁはぁ…、一郎…君…♪」
かえでが安堵した顔で大神の手を握り返したその時、耳元で懐かしい声が聞こえてきた。
『――頑張るのよ、かえで』
「え…?」
温かくて、親しみを覚える、自分とよく似た声…。
「あやめ…姉さん…?」
それを聞いた瞬間、お腹の痛みがふっと和らいだと思ったら、元気な赤ん坊の声が分娩室に響き渡った。
「おぎゃあ、おぎゃあ…!!」
「おめでとうございます!元気な女のお子さんですよ…!!」
「やった…!よく頑張ったな、かえで!!」
「今…、姉さんの声が…」
「あやめさんの…?」
「えぇ…。――ふふっ、天上界から私とこの子を守ってくれたのかしらね」
かえではそう呟くと、生まれたばかりの我が子を抱き、潤んだ瞳で微笑んだ。
そんなかえでと娘の頭を大神は優しく撫でてやる。
「きっとそうだな…。――ありがとうございます、あやめさん」
無事に出産を終え、大神とかえでは幸せに微笑み、寄り添い合った。
大神とかえでの間に第二子が誕生して一週間。
難産を無事に乗り越え、母子共に健康なかえでと赤ん坊は、明日めでたく退院を迎えることとなった。
「あれだけの難産でしたのに、ここまで早く母体が回復するなんて奇跡ですよ…!」
「ふふっ、先生の適切な処置のお陰ですわ」
「本当にありがとうございました」
「いえ、あなた方夫婦の強い絆があったからですよ。仲が良くて羨ましい限りですな」
「ふふっ、そんな…♪」
大神とかえでは恥ずかしそうに顔を見合わせつつも、幸せいっぱいで思わず顔がにやけてしまった。
「ねぇ、僕も抱っこしたいよ〜!」
「はいはい、おばあちゃんの次にね〜♪」
「え〜!?」
「ほらほら、おばあちゃんでちゅよ〜♪」
「〜〜お母さん、落とさないようにね…!?まだ首がすわってないんだから…」
「ふふ、五香ちゃんは心配性ねぇ。誰があなたをそこまで大きくしたと思ってるの?」
「〜〜ほとんど私だろ?母さんは離乳食一つロクに作れなかったじゃないか…」
「まぁ、双葉ちゃんったら。そのお陰で新ちゃん育てる時、苦労せずに済んだんじゃないの〜。ね〜♪」
「〜〜ふぇ…、びえええ〜ん!」
「…その子はそうは思わないってさ?」
「〜〜あらあら、どうしましょう…!?」
「あぁ…、頭を足より上げてやらないと…!」
「こ、こうかしら…?――まぁ、泣き止みましたわ!さすがはお医者様ですわねぇ〜♪」
「い、いやぁ、それほどでも…。はははは…♪」
孫がいるとは思えないほど若く見えて美しい志乃に、担当医はウブな少年のように赤くなった。
「くすっ、また母さんのファンが一人増えたわね」
「〜〜本当、魔性の女だよなぁ…。一郎と新君のモテぶりも、きっと母さん譲りなんだろ」
「〜〜いぃっ!?そ、そんなことはないと思うが…」
「ふふ、本人が自覚してないのがせめてもの救いよね〜」
「おい、一郎!かえでを泣かせるようなことがあったら、この姉が承知しないからな!?」
「そんなことするわけないだろう?――かえでと子供達は俺が命に代えても守り抜くって、プロポーズの時に誓ったんだから…」
「一郎君…♪」
「愛してるよ、かえで…♪」
「か〜っ、見せつけてくれるねぇ〜」
「はいはい、ご馳走様〜」
皆の楽しそうな笑い声につられるように、赤ん坊もきゃっきゃっと笑い出した。
「あらあら、ご機嫌ねぇ〜♪」
「可愛いね〜♪――お〜い、僕がお兄ちゃんの誠一郎だよ!よろしくね、『あやめ』」
「え…?」
「えへへ…、僕ね、妹ができたら、あやめおばちゃんの名前をもらおうって前から決めてたんだ。そしたら、あやめおばちゃんが生まれ変わって、また僕達の家族として戻ってきてくれたような気がするでしょ?」
「誠一郎…」
「ダメ…かなぁ?」
「――いや、ありがとな。お前は優しい子だ」
「きっと、姉さんも喜んでるわね」
「えへへ〜っ♪」
息子を共に抱きしめ、大神とかえでは涙ぐみながら、生まれたばかりの『あやめ』の頬を優しく撫でた。
「――これからよろしくね、あやめ」
『あやめ』と呼ばれ、心なしか赤ん坊の笑顔がより一層明るくなったような気がした。
夜になった。
面会時間が終わったので、双葉、誠一郎、志乃、五香は病院を後にした。
大神はかえでの夫ということで、明日の退院の時間まで病室でかえでと娘のあやめに特別に付き添えることになった。
難産だったので、母体が夜中のうちに急変しても困るからと、医者が配慮してくれたらしい。
だが、それは幸い、杞憂に終わりそうだ。
逆子の出産で体力と精神力を激しく消耗したにも関わらず、かえでは不思議と元気だった。
普通の妊婦なら1ヶ月はぐったりしているはずなのに…と医者も看護師も驚くほどだ。
「――かえで、横になってなくて大丈夫か?あやめの世話はこれから嫌ってほどできるんだし…」
「ふふっ、一郎君は心配性ねぇ。大丈夫よ。自分でもビックリするぐらい、もうすっかり元気なんですもの!」
「なら、いいけど…。〜〜あの時、かえでにもしものことがあったらと考えると…俺…」
「ふふっ、言ったでしょ?あやめ姉さんが守ってくれたのよ。――ね〜♪」
かえではニコニコしながら腕に抱いているあやめに話しかけた。
父親の大神に見守られ、母親のかえでの腕に抱かれて眠る娘のあやめ…。
夜泣きもせず、安心するようにぐっすりと眠って、天使のような可愛らしい寝顔を見せてくれている。
「おとなしくて、賢そうな子ね…。ふふっ、写真で見たあやめ姉さんの赤ちゃんの頃にそっくり!」
「はは、そうだな」
「ふふっ、何だか小さくてお人形さんみたい…。誠一郎は3900gもあったから、もっとずっしりしてたけど…」
「そうだな。でも、あやめもこれからどんどん大きくなるよ」
「ふふっ、そうね。楽しみだわ…」
あやめの寝顔をかえでは目を細めて見つめ、優しく口元を緩ませた。
「――昨日ね、あやめ姉さんの夢を見たの…」
「あやめさんの…?」
「えぇ…、とっても不思議な夢だったわ…」
かえでは、昨晩の大帝国劇場・隊長室での出来事を回想し、大神に話し始めた。
『――お〜い、お兄ちゃんだよ〜!元気か〜い?」
『ふふっ、誠一郎ったら』
『そんな大きな声出したら、赤ちゃんが驚いちゃうぞ?』
『えへへ…、だって嬉しいんだも〜ん!』
かえでの大きなお腹に耳を当て、赤ちゃんの鼓動を聞く息子の誠一郎にかえでは微笑み、大神は頭を撫でてやった。
『――あっ、また蹴ったよ…!きっと、もうすぐ生まれるね〜!楽しみだな〜!!』
『はは、そうだな。――おっ、もうこんな時間か…!花組のお姉ちゃん達におやすみなさい言ってこい』
『はーい!』
と、誠一郎は寝間着の上にカーディガンを羽織って、元気に隊長室を後にした。
『ふふっ、誠一郎ったら、すっかりお兄ちゃん気取りね』
『はは、前は甘えん坊だったけど、最近はたくましくなってきたよな。――体の調子はどうだ、かえで?』
『ふふっ、そんなに何回も聞かなくても大丈夫よ。出産だって初めてじゃないんだし、いつ産まれてきても平気よ!』
『はは、それは頼もしいな。――さーて、この子は男かな?それとも女の子かな…?』
『私は女の子がいいわ。それで、次世代の花組トップスタァになってくれたら嬉しいわね』
『はは…、それは楽しみだな。俺はどちらでも嬉しいけど、もう一人男でもいいかなって』
『あら、どうして?』
『誠一郎も弟ができたらキャッチボールするんだって張り切ってたし、――それに、かえでがその様子じゃ、女の子が出来るまで子作りを続けられそうだしな…♪』
『ふふっ、一郎君ったら♪別に女の子が出来ても続けられるでしょ?』
『はは、それまで体がもつかな…?』
『ふふっ、一郎君なら大丈夫よ♪』
と、大神とかえでは笑いながらキスした。
大帝国劇場の支配人である大神は昼間は仕事で忙しいが、夜の見回りが終われば、すぐに妻のかえでの元へ帰ってきてくれる。
臨月でお腹が大きくなったかえでは、何かにつかまりながらではないと歩くこともままならないので、夫の大神が身の回りの世話をしてやっているのだ。
さくら達・花組も舞台稽古や戦闘訓練の合間を縫って、かえでの世話をしてくれたり、誠一郎の遊び相手になってやったりしている。
仲間がいる素晴らしさを、かえでは改めて実感していた。
『――う…ん…、僕が…お兄ちゃん…だよ…むにゃむにゃ……』
寝ている間も大神がかえでの手を握り、誠一郎がかえでにぎゅっと抱きついている。
『ふふっ、寝相がおんなじ。さすが親子ね』
かえではクスクス笑いながら、大神と誠一郎の布団をかけ直してやり、再び横になった。
『――かえで…』
『え…?』
ふと視線を感じて目を向けると、あやめが枕元に立っていたので、かえでは目を丸くして飛び起きた…!
『ね…、姉…さん…?』
あやめはかえでのお腹を優しく撫で、微笑んだ。
『――もうすぐ会えるわ…』
『え…?それってどういうこと…?〜〜待って、姉さん…!行かないで――!!』
そこでハッと、かえでは目が覚めた…!
『〜〜姉…さん……』
かえでは涙をこぼしながら、天井にまっすぐ伸ばした手をゆっくり下ろした。
気がつくと、すでに外は明るく、小鳥のさえずりが朝が来たことを告げていた…。
「――お腹を撫でてくれた姉さんの手の温もり…。はっきり覚えてるわ…。あれは本当に夢だったのかしら…?」
「実は…、俺も昨日、同じような夢を見たんだ…」
「え…?」
『――大神君、これからはずっと傍にいるわ…』
大神の夢の中のあやめは、あの頃と同じ優しい微笑みを浮かべてくれた…。
「――あやめさんが出てくる夢はよく見るんだが、昨日のはやけにリアルだったというか…」
「ねぇ、それってもしかして…!」
と、大神とかえでは同時に赤ん坊の『あやめ』を見つめた。
「…ふふっ、まさかね」
「けど、あやめさんが俺達の娘として転生してきた…って考えたら駄目かな?」
「え…?」
「この子があやめさんの生まれ変わりなのか、そうでないのかはわからない…。けど、そう思ってこれから育てたら、よりこの子に愛情を注げるんじゃないかなって…」
「一郎君…。――そうね…。きっと、あやめ姉さんが私達の元へ帰ってきてくれたのよ…!私はそう信じる。ううん、きっとそうなんだわ…!」
若くして亡くなった血縁者と同じ名前を子供につけると、その子は長生きするという言い伝えが昔からある。
この子には、若くして非業の死を遂げたあやめの分まで長生きして、人生を謳歌してもらいたい。
両親の大神とかえでは、そう願った…。
「――お帰りなさい、あやめ姉さん」
「――早く大きくなって下さいね、あやめさん」
明日、3人で一緒に帝劇へ帰ろう。
仲間達のいる家へ、もう一度、あの頃と同じように…。
「娘はあやめ姉さん!?」その2へ
かえでの部屋へ